第3回経営者研修会
「全印工連会長として学んだこと」
全日本印刷工業組合連合会 会長 浅 野  健氏
 平成19年度第3回経営者研修会が、3月7日午後1時から札幌市中央区の札幌パークホテルで全日本印刷工業組合連合会会長の浅野健氏を講師に迎え、「全印工連会長として学んだこと」をテーマに80人が参加して開催された。
 以下、講演の内容の抜粋を紹介する。      (文責:編集部)

全印工連とは
 振り返えると4年前の5月に全印工連の会長に選任をいただいた。早いもので4年が経とうとしている。お蔭様でこの5月の総会を以て、東京の水上印刷の水上社長に全印工連会長のバトンを渡すことができる運びとなった。まだ暫く時間は残っているがほっとしたというのが正直なところである。自分自身がこの4年間で実に多くのことを学んだ。裏を返せばそれだけ何も知らなかったことだと痛感している。自分自身が学んだことに対して皆様方のお役にどれだけ立てたのかと考えると大変忸怩たる思いがある。今日、私自身が学んだことの一端を皆様方にお返しのつもりで、また御礼のつもりで話をしようと考えている。
 北海道にも4年前、上期の地区協議会でお邪魔した。その時感じたが、良く全印工連は各県工組の上部団体と紹介する方がいるが、紹介挨拶という意味では特に目くじらを立てる必要はないが本質的には間違っているといつも思っている。今から50年位前に中小企業団体の組織に関する法律で全国の都道府県に印刷工業組合が組織された。しかしなから、北海道でも東京でも大阪でも福岡でもどこもそうであるが1工組ではどうしても担えないことがある。北海道印刷工業組合が経済産業省と何かパイプを持とうと考えてもそれは不可能である。北海道庁とは可能であっても経済産業省とは不可能である。これは東京でも一緒のことである。したがって1企業で賄えないことを工業組合で、つまり皆さんが知恵を持ち寄り、エネルギーを持ち寄り、解決を図る。1工業組合で賄えないことを全国の連合組織でそれにあたる。1企業を支える立場が工業組合、工業組合を下支えする立場が全印工連である。組織図のイメージでいくと一番上にあるのが各工業組合の組合員企業、その下に工業組合があり、さらに全印工連があるということである。私は全印工連の会長という立場であるので、各工業組合、全国の組合員の知恵を借りながら下支えをしている立場である。会長と皆さんから呼んでもらうが実態は営業部長のようなものだろうといつも認識している。4年前の地区協には自己紹介のつもりでお邪魔したが、その後は地区協議会は地区協議会長を中心に開催がされているので私が呼ばれもしないのにのこのこ出向くのは筋違いという自分自身の認識で今まで伺わなかった。ただし、今回は私自身の退任が目の前に迫っているので4年間ご理解ご協力をいただいた御礼の思いで今日呼ばれていないが伺わせてほしいとお願いしたところ、そうしたら学んだことの一部を話せということになった。
印象に残った旭川での全道大会
 北海道の皆さんとはいろいろなところで縁をいただいたが、今でも大変強く印象に残っているのが、旭川で行われた全道大会である。何が印象深かったかというとオートバイに乗って全国を回られた落語家の方を呼び、その方の落語を聞きに札幌から旭川に来た、言ってみればお客様がいた。私はその状況を説明いただき、また多くの方が会場に来られている様子を目のあたりにしてまさにこれだと思った。全印工連の全国大会が何か物足りないと思っていたがやはりこれなんだ。業界内の情報発信は勿論全国大会という場で行われてきたが、開催する地域の皆様にもお役に立つそういう視線が必要であった。そのようなことも勉強させてもらい、私が会長職を引き受けて2回目の全国大会の新潟からそのスタイルを水平展開、言ってみればカンニングさせてもらった。新潟は珍しいところで大学は少ないが専門学校が日本一多い。その専門学校の学生達に良い講演があるので聞きに来てくださいと事前にピーアールをした。早朝の講演会で大変広い会場であったのでどうなることか心配であったが早朝から若い人達が会場に詰め掛けてくれた。あの状況は今でも忘れない。翌年の全国大会は、下関で行われたがよりそういった視線が強くなった。そのスタートは何と旭川にあったということを今始めて白状する。ありがとうございました。皆さんの先見性、地域に対する思いが全印工連の全国大会のスタイル大きく変えた。昨年は果たして全国大会は毎年必要なのかという思いから1年休んだ。今年は長州の次は薩摩になった。先日、東北の地区協議会にお邪魔して長州の次が薩摩で申し訳ないが会津の方も是非来てほしいとお願いしたら快く大勢で行くと返事をもらった。北海道から鹿児島まで時間も旅費もかかると思うが是非一人でも多くの方に来てほしい。また新たにスタイルを変えて行く全国大会の場で、何よりも水上さんのより具体的な業態変革モデルの情報が発信されると思うのでお運びをいただきたいと思っている。
グーテンベルグの活版印刷術
 先ほどから多くのことを学んだと言っているが、今日はその多くの中から3点、話をしたいと思う。丁度、今から10年前で、皆さんの記憶から遠ざかっているかもしれないが1998年にアメリカのライフという雑誌が11世紀の始めから20世紀の終わりまでの1千年間でもっとも人類に貢献した発明、発見は何であるかをテーマに100の発明、発見を選んだ。第1位に評価された発明が15世紀に南ドイツのマインツでグーテンベルグによって発明された活版印刷術であった。私はその報道を見て訝しく思った。なぜそこまで高く評価されたのだろうか。後になって多くの人に教えてもらった。印刷物がそれ以前に比較すると大量に製作・製造されることになったということではなく、その結果、何がどうなったか、ここが一番評価されたポイントであったということである。それがまさに私たち印刷産業の本質ではないかということである。印刷という明確な概念が生まれる前から3大文明の足元では必ず印刷に近いものが生まれている。黄河文明では漢字に発展する文字が生まれている。また木版で文字を記録する技術も生まれている。後に中国では銅の活字も生まれている。その前に朝鮮半島では木の活字も生まれている。チグリス・ユーフラテス川のインダス文明では円筒印章という縄文土器と一緒のような、文様を刻んだ円筒を粘土の上に擦り付けると粘土が凹み、文様を刻んで大量に複製することが可能になった。ナイル川のエジプト文明ではヒエログリフというアルファベットの原型の一つといわれる文字も生まれている。人類の3大発明は文字と紙と印刷だそうである。中世の3大発明は火薬と羅針盤とこれまた印刷である。グーテンベルグによって工業的な印刷が可能になった。グーテンベルグは機械を作り活字を作った。しかしながらオリジナルではなかった。グーテンベルグの活版印刷機はワインを作るための葡萄絞り機を改良したものであった。上下の圧力によって紙にインキを転写する機械であった。したがってプレスである。レタープレス。今でも記者会見はプレスリリースと言われている。元はこのプレスである。活版印刷である。活字も原型は材料が銅であったり木であったりしたが既に存在していた。グーテンベルグの凄いのは、彼は元々彫金師であったらしいが鉛と錫とアンチモンという溶かしやすい材料を使い、しかも細かいリテールまで鋳造しやすい活字合金を発明したことである。リサイクル可能だし何度も使える。
印刷技術がもたらしたもの
 グーテンベルグによって何がどうなったか。ドイツでは宗教改革が起きた。当時腐敗しきったローマカトリックは免罪符を発行してお金を出せば罪が消えるという馬鹿げたことを宗教家がやっていた。マルチンルターはそれはおかしいということを印刷物によって当時のヨーロッパの人達に自分の考えを伝えた。結果として宗教改革が成功した。もしマルチンルターに印刷物という情報伝達媒体がなく、使えなかったら、極一部の人に自分の考えを口頭で伝えるよりなかった。あるいは手紙を書くよりなかった。それで当時圧倒的な力を持っていたローマカトリックに立ち向かえたはずがない。イタリアではルネッサンスが花を開かせた。後年になるがイギリスでは産業革命。イギリスからは聖教徒たちが、グーテンベルグの発明の次である、最も人類に貢献した発明、発見の第2位に評価されているコロンブスが発見した新大陸に渡りアメリカ合衆国を作った。光の部分、影の部分があるが、今私達が真只中にいる近代文明に繋がる。近代文明の起源はどこかと遡ってみれば、人類が始めて手にした情報伝達媒体つまりグーテンベルグによって発明された活版印刷術だということである。グーテンベルグは聖書の出版をして一旗上げたかったのである。自分の資金で紙を買ったり、活字の原料を買ったり、印刷機械の改造のためさまざまな努力をした。しかしながら自分の資金が枯渇するので、当時であるから金貸しから融資を受ける。彼に金を貸したのがヨハンフストという金貸しである。ヨハンフストはグーテンベルグの開発のスピードを見て自分との約定を必ず守れるはずがないと踏んだ。そこで自分の娘をグーテンベルグの一番弟子に嫁がせた。案の定、グーテンベルグは約束の日までに聖書の出版ができない。結果、工場はフストに担保で取られてしまった。フストは娘を嫁がせた一番弟子に工場を任せ聖書の出版に漕ぎ着ける。今でも昔でも金融と印刷はどちらがしたたかであるか。同時に納期は大切である。納期は守りましょう。グーテンベルグはそうやって追放されてしまう。その後グーテンベルグの工場であったヨハンフスト工場はマインツの大火に遭い、そこで働いていた人達はいろいろなものを持って逃げた。町は簡単に復興しないのでそれぞれが出身地に帰り、自分が持ち出してきたもの、足りないものは見よう見真似で作ってあっと言う間にドイツに印刷屋さんの数が広がったそうである。そんなところに印刷技術が広まっていった原因があったのかということである。ドーバー海峡を越えてイギリスにも伝わって行く。
印刷屋はプロの称号
 16世紀のイギリスではこんな話がある。命がけで印刷をしていた。封建時代は、情報は誰のものかというと専制君主と一部特権階級の人のものであった。情報を大量に複製して一般市民にそれを伝えてしまう印刷屋。私は印刷屋という言葉が大好きである。なぜなら屋はプロの称号、プロフェッショナルという意味を感じるからである、魚屋さんも八百屋さんも酒屋さんもそうである。北海道電力に行くと原子力をやっている人を原子屋というはずである。火力をやっている人を火力屋という。屋というのは素晴らしいプロの証である。したがって印刷屋と呼ばれることは大好きである。16世紀のイギリスの印刷屋たちは命がけであった。当時の専制君主からは危険分子とみなされた。死刑場に連れていかれる。その時、ある印刷屋の親父は「私一人殺しても駄目だ。私には26人の小さな鉛の兵隊がいる。もうこの動きは止まらない」と言い残こした。26人の小さな鉛の兵隊はアルファベットの活字のことである。私たちは1千年間で人類に貢献した第1位の発明、それを命がけで引き継いできた多くの方達のDNAを受け継いでいるはずである。
明治維新と印刷
 日本では明治維新がなぜあの短期間に成功したのか。勿論、当時の日本人の価値観とは相当逸脱した坂本龍馬や西郷隆盛が原動力になったことは事実であり、海外からの圧力もあった。しかし峠を一つ越えれば他国であった時代が長かったが、それがあっという間に国家という概念が生まれ、概念だけでなく国家が誕生した。なぜそんなことが可能であったのだろうか。他の国、地域にはこんな例はない。悲惨な内乱もあったわけだが、その割には無血クーデターに近かった。そこに本木昌造さんや平野富二さんの存在が仮になかったとしたらどうであったか。本木昌造さんは長崎で代々オランダ語の通訳を務めていた本木家に養子に入った方である。15〜16歳の頃には既にオランダ語の通訳として活躍されていた。彼が通訳しているうちにオランダ人からいろいろな情報を聞くわけである。彼がもっとも興味を持った技術が2つあったそうである。それが印刷と造船である。その後、彼の弟子になった平野富二と一緒に築地に出た。そこに造船所を作った。その造船所はいまでも石川島播磨重工として息をしている。同じように築地活版所を作った。築地活版所は今、石碑が残っているが、その末裔たちは私たちの仲間として築地、入舟界隈にたくさんいる。印刷タウンである。彼らの存在があったから法律も教育も全国標準で津々浦々まで伝えることができた。もしそれがなかったとしたら、例えば書き写している間に一文字間違えることがある。アルファベットもロシアに伝わったときには逆になった。そんなことは伝言ゲームをやったら必ず起きる。それで果たし国家が誕生したとは思わない。ヨーロッパでも日本でも人類が情報伝達媒体を手にしたときから現在にそれが繋がっている。グーテンベルグは機械を作り、インキも活字も作った。私たちはどうか。流石にこの中に機械を作っているという人はいないと思う。私も聞いたことがない。機械は機械メーカー、インキはインキメーカーである。グーテンベルグも紙は買ったようである。その後、分業が始まっていく。私たちの先輩たちは他の方達に作ってもらった機械、資材をた巧に使って印刷をするというところに専門性を見出し、印刷業として印刷産業を作っていった。印刷物はより正確により美しくより大量により速く、し過ぎているがより安く、社会に役に立つように努力してきた。その努力はいまでも引き継がれている。私達が胸を張っていい努力だと思う。しかしその反面、印刷産業の本質つまりグーテンベルグの活版印刷術の発明が何をもたらしたかということに対して少し興味が失せてしまっていたのではないか。新たにインターネットも生まれてきた。21世紀から30世紀末までの1千年間で果たして人類に貢献した第1位に評価されるだろうか。1千年間地球はもたないかも知れないが、人類の英知でもたしたいと思う。何年か前に有名な経済学者のピータードラッカーが亡くなる1年前に日本のジャーナリストが新しく生まれてきたITをどう思うかを聞いている。ドラッカーは一言の下、グーテンベルグに比べたらそれは何なのという答であったようである。2番煎じ、3番煎じなのである。私達はグーテンベルグのDNA、本木昌造さんのDNAを今でも引き継いでいる。胸を張れる仕事ではないか。
印刷は文化のバロメーター
 若い頃に印刷は文化の母だとか、印刷は文化のバロメーターだということを先輩たちが言うたびに私はむかついた。製造の現場、営業の現場に何処に文化の香がするのか。せいぜいインキの臭いではないか。どうしてそのような偽善的なことを言うのかとそんな思いで一杯であった。しかし、今は違う。確かに今でも製造の現場、営業の現場になかなか文化の香は漂っていないと思う。しかし、私たち一人一人の心の中にそれを絶やしてはいけないということである。威張りくさり、踏ん反り返ることはないが、お客様やグラフィックデザイナーの皆さんともプランナーの皆さんとも対等な関係で、悔しかったら自分たちで大量複製してみろと心の何処かで思うくらい対等な立場でパートナーシップを築いていく必要があるのではないか。私自身、何故かお客様の前に伺うと床を見てしまったり、何か言われると「はい」としか言えなかったりで一流の営業に成れなかった。しかし、我々のDNAは何処から来ているかに改めて気づき、教えてもらったときから、発注者は印刷産業を下等な産業、下等な人間だと見ていないことに気づいた。自分達でそんなことをいっている。士農工商印刷屋ということを聞いたことがないか。私は若いとき大日本印刷の営業から聞いた。それを日本を代表する印刷会社の社員が言う。北海道はあまり聞かないようである。大阪では知っていた。九州では知らないと言っていた。私はそういう言葉を他の産業の人から聞いたことがない。君たちは士農工商印刷屋だから黙っていなさいと言われたことは一度もない。全て自分達で自分達の地位を下げているように思う。同じように私達自身が私達の未来を暗く描いているのではないか。大変残念だと思う。もう一度適正なプライドを持つべきだ。忘れてはいけない。これが1つ目である。
経営計画と経営計画書は違う
 次は、業態変革をどうやっていくかである。私も業態変革の前の2005計画から参画をさせてもらったので、特に2005計画のキーワードは計画であった。中期経営計画であった。それまで自社では単年度計画の繰り返しでやってきたので、それではいけないということで3ヵ年の経営計画を立てることにした。実は大失敗をした。計画を作ったのではなく計画書を作ってしまった。見せたいくらい立派な計画書であった。思い起こせば小学生の時、夏休みになったばかりの頃、夏休みの計画を立てた。朝7時30分に起きて涼しいうちに2時間位勉強して、昼寝して、午後も2時間位勉強して、夜はまた1時間勉強してと、その予定表ができた途端に万歳でその中身も実現したかの錯覚に陥ってしまったことを思い出した。同じことをやってしまった。計画書ができた途端に計画どおり実現したような錯覚になってしまった。これだけの計画書があれば結果は絶対についてくると勝手に思ってしまった。しかし、その計画書は社の中ではおよそ理解度が進まなかった。私の計画書になってしまった。会社でも社員に何で毎日働いているのかとミーティングのたびに聞く。そうすると10人が10人いろいろなことを言う。生活のためとか、食べるためとかという。私も意地悪だから生活とはただ息をしていればいいのかとか、食べるものは食べられれば何でもいいのかと言う。そうするとそういう訳ではないと言う。自分自身を家族のいる方は家族を含めて豊かにするために毎日働いているのでないのと聞くと皆んなそうだと言う。会社のためでないだろうと社長の私が言うものだから、少しは困った顔をするが、直ぐに真顔になって会社のためではないと堂々と答えてくる。これが本音である。それではあなたにとって会社という存在はなにか。これも10人10色である。その時、私はこう考えるということをいつも話をする。
会社をメンテナンス
 企業は一人一人の人生を豊かにするための道具である。道具のために働く人はいない。道具は目的のために使うのである。使って初めて価値が生まれる。会社の中に建物もあれば設備もある。情報もあれば技術もある。資金もある。人が使って初めて価値を生み出すものばかりである。道具だから手入れが必要である。印刷機械の手入れなら皆んなイメージがあるが、会社というあなたの道具を、あなたの道具であるが、あなただけの道具でないというところが悩ましいところである。その道具を手入れする必要がある。手入れをしないと使い勝手が悪い。使い勝手が悪いとお客様の役に立てない。お客様の役に立てないと売上げが計上できない。売上げの計上のないところに利益はない。そうするとそこでその道具を使っている一人一人の人生は豊かになるということを実現できない。だからさらにお客様の役に立とうということを考える。だから会社を手入れしないといけない。会社という道具をどう手入れするか。変えることである。私の会社は金羊社という会社である。この4月に82年目になる。82年前と今と変わっていないものが一つだけある。というか変わっていないものは一つしかない。それは会社の名前である。たまたま81年間で会社の名前を変えようということが起きなかったということである。所在地は変わっているし、技術は変わっているし、設備は変わっているし、得意先も変わっている。81年前の得意先は1社もない。最近になるとお客様が勝手に名前を変えてしまう。それはお客様が勝手に変えたことで、あとのことは何かの理由で変えてきたのである。戦災で空襲を受けて焼けてしまったから港区から大田区に引っ越したとか、何か理由があるから変えてきた。会社という道具をメンテナンスするのはこれである。何も変えなかったら手入れが進まないからそのうち錆付いて動かなくなる。役に立たなくなるからお客様からいらないといわれる。売上げが計上できないということである。何処をどう変えるか。目的はただ一つ。お客様の役に立つために組織を変える。これも一つである。設備を変える。いろいろある。何を優先するか、何時までにするか、それが大事である。それを皆んなで相談する。それはあなたの道具であってあなただけの道具でないので、その相談をすることが計画である。それに気づかなかった。計画を作った。何の計画を作ったか。単に売上げ計画である。3年間どんな売上げで行こうか。ここからがスタートになってしまった。つまり自己中心的。さらにお客様の役に立とうということは何にも考えていなかった。売上げを2%ずつ増やすか3%にするか。勿論環境分析もしたが、いかなる環境の下でもやろうと軽々しく言ってしまう。そして見事に計画をクリアしたときもあった。良かったな、やればできるよな、来年も頑張ろう、これだけであった。計画をクリアできなかったときがあった。仕方ないな、残念だ、また頑張ろうである。これでは、さらにお客様の役に立つということが実現するはずがない。
2008計画・業態変革の提唱
 その間、2005から2008計画・業態変革の提唱に進んできた。そういう中でいろいろなところにお邪魔して多くの方と話をさせてもらった。掛値なく今日は無駄な時間であった来なければ良かったと思ったことはありがたいことに一度もない。常に新鮮であった。そのような皆さんとの縁で一つのことを真面目に考えるようになった。それまでは会社に計画のあるのは私が会社に入ったときからそうであったし、企業に計画があるのは当たり前だからと思っていた。つまりそれ以上でもそれ以下でもなかった。人は何故働くのだろうとか、計画とはいったい何であったのだろうか、他所様はどんなことをしているのだろうか。人は人、自分は自分とか。言っていることは格好いい。だけど中身はなかった。そんな中身がガラガラの私だったからこの4年間が随分勉強になった。中身がぎっしり詰まっている人だったら吐き出しただけで終っていたかも知れない。計画は何のためにするのか。お客様のお役にさらに立つための相談。そうでなかったらそこで仕事をしている人の人生は豊かにならない。何よりもどんなところでお役に立たとうか。どうしたいのか。どうなりたいのか。ここが一番大事だということであった。売上げ計画をつくるのではない。どんな会社にしたいのか。どんな人間集団にしたいのか。企業とは人が人を幸せにするために作った人の集団である。建物も設備もあるが主役は人である。なぜならば全ての経営資源は人が使ってはじめて価値を創造するからである。そんなことを皆さんと話をしている間に考えるようになった。自分がどうしたいか実はそこが一番希薄であった。要するにそこが自分の中ではっきりしなかった。皆さんに業態変革などということを恐れ多くも話をしていながら、それではお前はどうしたいのだ、お前の会社をどうしたいのだと、もしあの時皆さんから質問されたらどう答えていたのだろうかと思う。今、漸く霞が晴れて私は自分自身の正味期限中にこれだけはこうしておきたいということを明確に会社の中で伝えられるようになった。
7keys、現状認識を    
    共有するための65項目
 覚えていますか7keys、現状認識を共有するための65項目、トップにあるのは社長の思いが文書になっているかである。勿論、自社でもやった。文書にしてあるのだから、当然1・2・3・4・5でここは当然皆んな5をくれると思っていたら、2だとか3である。倒れそうになった。ここに書いてあると言っても駄目であった。なぜなら伝わっていなかった。文書化できているかという表現に我々はしたが、社長の思いが理解されていますかと深読みすべきであった。理解されていなかった。なぜだろうか。伝えきっていなかったからである。1回言ったら2回、もう50回言っている、100回言っている。どうして500回言わないのか、1,000回言わないのかということである。自分自身の思いがそこまで至っていなかったということである。そして全部、人のせいである。読まない奴がいるから仕方ない。これでリーダーシップは発揮されるわけがない。印刷工業組合でもそうである。いろいろなさまざまの情報を伝えているが読んでくれないのでは仕方ないと思うときはあるが、まだまだ伝え方に努力が足りなかったり、思いが足りなかったりとそんなふうに感じるようになった。全ての責任は自分にあるということである。人のせいではない。
利益は誰のために
 売り上げとはお客様のお役にたったボリューム、分量である。売上げが下がったらお客様のお役に立つ分量が減ったと考えればいい。競争相手がいて当社も値引きしたから売上げが下がった。現象はそうかもしれないがお客様にとってはどうなのか。利益とはお客様が信頼を寄せていただき一時預けてくれていると私は今そのように思う。預かりものだと思う。預かっているのだから誰かに返さなければいけない。先ず最初に返すのは今日もお客様のところに行って冷や汗をかいている営業の社員であったり、生産現場で無い知恵を絞って今まで3時間かかっていたものを2時間50分でできないかと知恵を絞っている社員にも返さなければならない。従業員の皆さんに利益還元、利益配分をしなければならない。株式会社であったら株主にもお返ししなければいけない。何よりもお客様に利益はお返ししなければいけない。どうやってお返しするか。東京で印刷会社の社員が国交省に商品券の持って行って贈賄で捕まったと今日の新聞に出ていた。社長も捕まったようである。そういうお返しの仕方はまずい。下心は直ぐにばれる。どうしたらいいか。設備投資である。設備投資だけでなく投資をすることである。目的はお客様のお役にさらに立つために投資をすることである。投資原資にさせていただくのである。そしてさらにお役に立つのである。それがお客様への唯一のお返しの仕方だと私は思う。お前はそう思っても俺はそうでないということが当然ある。それはそれでいい。私は4年間で自分でそう思うようになったという話である。教祖でもなんでもないので強制するわけでない。今までは売上げという言葉から何を考えたのだろう。数字しか思わなかった。利益これも数字しかイメージがなかった。利益率、利益枠、前年対比とかそんなことしか頭になかった。本来、売上げとは何だろう、利益とは何だろうと寝ないで考えるようになってしまった。なぜならば皆さんと話をしているうちに世の中には凄い人がいるとか、凄い会社はあるとか、こんなことやっているのとか、そんな驚きの連続であった。自分がいかに何も知らなかったかという驚き。同時に私が知らないのに何故皆んなが知っているのというショック。この連続であった。業態変革で最初に申し上げたのは5Sであった。次が原点回帰、そして新創業。結局そこにどうしても必要なものは自分の思いである。計画するというのは皆んなと相談すること。したがってそんな計画知りませんということはありえないはずである。それまでは計画とは管理室で決まったものであった。それを部下に伝える役員や部長まで会議でこう決まったと話している。説明でも何でもない。それが実態であった。そこに気づくのに2年はかかっている。その間多くの皆様方と話をさせてもらった。兎も角自分の思い、そして深く考えることが大事だということを学んだ。それが2つ目である。
利益は3種類
 3つ目は、利益には3種類あるということである。それを教えてもらった。一番目の利益は私益である。自社の利益、自分の利益である。これがなければ、これをお客様から預かれなければ投資ができない。還元ができない。配当ができない。納税ができない。したがってとても大事である。トヨタ自動車では2004年3月決算期のことであるが、出された改善提案は100万件、実行に移された改善提案が91万件、91%改善提案は実行に移されて5,000億円利益が前の年よりプラスになった。花王石鹸では1987年に発売したアタックという洗剤に1年に1回以上のペースで改善が加えられている。なぜそこまでするのか聞いたところ、私たちはお客様の不満を知っているからとさらりと言われてしまった。そうでない会社はお客様の不満を知らないか、知っていても何もしないのかのどちらかしょうこれまたさらりと言う。トヨタでも花王でも現場にもう問題はないと思ったがそうでなはないそうである。問題山積だそうである。一つ問題を解決するとその日のうちに新しい問題が出て来るそうである。考えてみればそうである。企業は問題製造業という人もいる。私の会社とトヨタと何が違うかというと、現場の問題を皆んなが真正面から見つめているということである。全てが自分が当事者だと思っている。そこが違う。斜めに見たり、見て見ないふりをする人が極めて少ないということである。それが現場力である。現場力の根源は利益配分である。社長がどんなに立派な経営哲学をとうとうと述べたところで給料が同業他社より2分の1であったらどうなるか。そんなものやっていられないということになる。
企業のコンプライアンス
 モチベーション、モラルを向上させるにも利益がなかったらその根源になる従業員への利益配分ができない。だから私益は大事である。しかし、私益だけを考えると、昨年1年間、日本を表す漢字が「偽」である。あまりにもお粗末、残念、下品、最悪、最低である。いつからそうなってしまったのか。あれは食品業界だろうというが、そんなことはない。目立っただけである。北海道のミートホープのおじさんを私は悪人とも思えない。ハム、ソーセージは作るところを見たら絶対に食べられないとある有名ハムメーカーの人から若いとき聞いたことがある。あれは常識であったのではないか。だけど開き直ってしまったのは拙かった。そこがセンスだったと思う。ノー天気であったのか。もう一つ白い恋人がある。賞味期限は誰が決めているのか。傷んでいたら自分で食べてみたら分かると思う。なぜあそこまでしなければいけないのか。伊勢の赤福、あの包装紙を刷っているのは三重県の理事長のところである。再発売したとき送ってきてくれた。美味しかった。私たちも関係あるのである。どうしてばれたのか。内部告発である。再生紙の偽装もそうである。インキは内部告発でなく隣を見ていたらやばそうだから白状してしまおうというような感じである。内部告発があり、企業が襟を正して健全になり成長し、社会に貢献していくことはそれはそれで良いことだと思う。しかし内部告発という行動は好きになれない。モラル、モチベーションが保てない。企業に対するロイヤリティーよりも市民としての正義感が強い時代、自分の会社を中心においては駄目である。中心に置くのは消費者である。自分の利益だけを考えるといつの間にかこんな日本に誰がしたで、皆んなでしてしまった。そんなふうに思えてならない。
仲間と分け合う利益
 だから2番目の利益が必要である。それは共益である。仲間と分け合う利益である。分け合う利益があってもいいのではないか。今日もそうである。週末の忙しい中を広い北海道からこの札幌に来るのにどれくらい時間がかかるのか。この前、中国地区協が鳥取で開かれた。隣が島根で向こうに広島、岡山、山口である。理事長さん、副理事長さんが来られる。私は東京から行った。誰が一番所用時間が短かったかというと東京から行った私である。羽田から飛行機で1時間である。山口、広島は大変である。岡山まで新幹線でそこから在来線である。島根は新幹線がない。当日は雪であったので流石に中国山脈を車で越えて来る人はいなかった。そうやって忙しい中、時間をかけてコストをかけて皆さんが集まって意見交換、情報交換をされる。なぜか。一人の体験、経験、一人が持っている情報量には限りがある。限りある情報の中からこれからを予測しそれに備えようと考えるよりは、これだけ多くの皆さんの知見、体験、情報をお互いに共有することでこれからのことを考えた方が余程有効的だと思う。何よりも今までのことを正しく認識できない人にこれからのことを予測することができるわけがない。今回も皆さんこうして時間を費やされて仲間たちと分け合う利益を一人一人が持ち寄って、そしてまたお土産に貰って帰る。組合にメリットがない。冗談じゃない。確かに法律でできた組合である。その存在そのものだけで組合員の皆様方に喜んでいただけるということは考えていない。良くラグビーの好きな人達が言うワンフォーオール、オールフォーワンという言葉がある。一人は皆んなのために、皆んなは一人のために。ラグビーでポイントをゲットする人にどうやってボールを繋げてきたかと考えれば、フォワードの第1列、フッカーから始まってボールを次へ次へと繋げて最後ウィングかセンターがゴールポストのところに飛び込む。飛び込んだ人は喝采を浴びるがスクラムからボールを蹴り出した人、そのボールをバックスに繋げた9番や10番、スクラムハーフ、スタンドオフそういう人達の存在がなければ起こりえない話である。我々もそうである。仲間たちと分け合う利益はとても大切なことだと思う。しかし、仲間の利益を持っていってしまうのは良くない。
社会にお返しする利益
 3つ目は公益である。社会にお返しする利益である。勿論、私益の中から納税という形で社会にお返しをしてきた。産業としてはどうか。産業として何か社会にお返しできただろうか。共益から公益を目指された旭川の全道大会が新鮮にかつ刺激的に写った。昨年とんでもないことが起きた。次の印刷産業界を担っていく青年組織に全青協がある。協議会なので事業をする組織になっていない。したがって予算もない。それが私に断りもなくMUD(メディアユニバーサルデザイン)、色覚にハンデキャップを持っている方に対して心配りをする色使い、文字の配列が必要ではないか。我が印刷産業から発注先、世の中に情報を上げていこう、提案していこうという運動を勝手に始めた。ここが私が高く評価したところである。青年と名が付いたら勝手にやっていい。親の許しを得てではない。良いことだと思ったら勝手にやったらいい。そして我々は途中でそれに気づいた。全青協の浦久保議長は大阪なので大阪に出向いた。そこでまた感激した。浦久保議長の仲間の一人が、父親からバトンを譲られ社長になったその日であった。社長になったその日なので忙しいはずである。その方が私と浦久保議長が話をする会場に来てくれた。親父から何処に行くのかと言われ、組合というとまた組合かと嫌な顔をされた。しかし、今日は東京から浅野会長がきてMUDの話をすると言ったところ、その親父はそうか浅野が来ているのなら行って来いとは言わなかった。MUDの話で行くなら行って来いと背中を押してくれたという。業態変革は世代によってバトルトークになる。晩飯時、親父のやり方は古いなどと親父と息子がやったらお母さんははらはらしてしまう。それも時には必要である。ところがハンデキャップを持った方々に対して、我々、色彩をビジネスのコアの一つにしている印刷産業内からそういう動きを社会にぶつけていこう。これに対しては、親父も爺も息子もない。その事業を勝手に始めてくれた。期の途中から我々がサポートする側に回り、新年度からは水上新会長のもとで全印工連の事業にさせてもらうことにした。そうしたらこの活動にはスピードが大切である。同時にMUDを扱っている団体はたくさんある。それらとの連携を取ったり整合性を取ったりすることが必要である。したがって自分達はNPO法人を作ると素敵なことを言う。印刷工業組合に加盟している組合員企業はそれを受けられる印刷会社になってほしい。看板はいいので自分達はフットワークで役に立つという。普通は逆である。動きもしないで看板だけ欲しがるやつがいる。流石である。この若くもない青年たちが我々の後輩として私たちの産業を担おうと頑張ってくれている。振り返れば私たちは素晴らしいDNAを受け持っている。私益、共益、公益とくると今度は公益の部分からビジネスチャンスが生まれて、それがまた私益に還元される。私益だけでなく、共益、公益もバランスよく視野に入れながらお客様のお役に立ち社会に貢献をしていきたいと強く思うようになった。
業者組織があるから印刷業者として
      社会的な認知を受けている
 最後になるが、私が尊敬する元全印工連会長の塚田さんが亡くなる直前まで校正をされていたという遺作があるが、その前文の一部を皆様方に贈らせていただく。「戦後の焼け野原の中から一つの産業が育っていったのだが、むろん印刷事業所の経営者や親父さんたちの努力は筆舌に尽くせないものだった。しかし、個人がばらばらに金儲けに努力するだけではその個人も経済人として評価されないし産業組織もできるものではない。産業組織ができ、統計数字も整備され、国の労基法や税法などの諸法令も伝達されるようにならなければ印刷事業所が会社になれない。その中で印刷会社が社会的存在として認知され、存在理由も明確になってくる。もし団体組織がなかったらその会社は経済界の中で野ざらしになった雑草のようなものになってしまう。よく組織のメリット論が出されるが、本来、業者団体は組合員にメリットを与えるために組織されるのではない。会員会社の社会性を高めるために団体組織が用意した統計数字や業界情報など業界団体が提供する特殊なサービスがあるからそれを自分の方から近づいて利用するのである。社会的な認知もプライドも仲間付き合いも情報も不要だと思えば踏みつけられる雑草として一人で自社を守ればいい。私たちは業者組織があるから印刷業者として社会的な認知を受けている」皆さんいかがでしょうか。私は4年間、本当に全国の多くの皆様方にいろいろなことを教えてもらった。5月にその職を次の方に受け継いでいただくことになった。ありがたいと思っている。皆様方から教えてもらったことをこれから産業人の一人として活かし、共益、公益の部分でお返しができればと考えている。ありがとうございました。

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