組合の役を仰せつかってずいぶんと経つが、最近ふと頭に浮かんだことがある。「なんで我々は貴重な時間と金まで使ってこんなことをしているのか」という素朴な疑問。外国に我が組合のような活動をしている組織があるとは思えない。ではなぜ日本にはこういう組織体があるのだろうか。
そこで無い知恵を振り絞って考えてみた。そして辿り着いた結論は、「我々は日本人である」という当たり前(?)のことである。
日本人はいにしえより稲作を中心とした農業を生業としてきた。工業立国となったのはつい最近の明治時代からである。言うまでもなく昔の農業は共同作業なくしては成り立たない。田植えや刈り入れは短期集中的に人海戦術で協力し合わなければならない。そのため我々の祖先は集落を作り、その長を中心にあらゆる事象に対応してきたのである。冠婚葬祭とて同様である。また、対外的には結束して外敵から集落を守ったり、近隣村落との水の利権問題の解決にあたったりもした。天災や飢饉への対応など大自然に対峙する人々には難問山積の日々であったろう。現代では想像を絶するほど生き抜くのが大変な時代が長く長く続いたのだと思う。そんな状況の中を我々の祖先は、互いを尊重し一致団結し協力し、知恵を出し合い連帯して生きてきた。と言うよりそうしなければ生き延びられなかった。ここに日本人独特の気質が醸成された。そしてその因子が心のDNAにすり込まれたのではないかと考える。ゆえに今我々が互いに助け合う組織を持つのは理の必然ではないだろうか。そこが狩猟民族たるアングロサクソン系等とは異なるのだろう。そう考えるとなにやら得心がゆく。
さて、8年前に政府は中小企業への支援政策を変えた。護送船団方式から自己責任へ。つまるところ非力な零細企業を切り捨て、活力ある中小企業のみを支援するという姿勢だ。このことはグローバルな経済至上主義の側面からすると是非は問えないが、少なくとも日本人的心情論からすると受け入れられないものがある。なぜなら「一人の落ちこぼれも出させない」という思いが日本人のDNAの中には息づいていると信ずるからである。そして我々の組合もこれまでそんな気概を標榜してきたのではなかったのか。そんな組合の泥臭さを愛する者として、今後も手を携えて一社の落伍者も出させぬという信念を貫いてほしいと願わずにはいられない。
原風景はいつも懐かしい心の拠り所である。我々も先人達が培ってきた精神の土壌を固く護り続けたいものだ。