熱き経営者魂が業態変革のドアを開く
平成16年度第1回全道委員長会議・経営者研修会
平成16年度上期全印工連北海道地区印刷協議会
 平成16年度第1回全道委員長会議、平成16年度上期北海道地区印刷協議会が6月11日午後1時から札幌市中央区の札幌パークホテルで、全印工連から浅野会長、武石専務理事と全道から委員60余名が出席して開催された。
 また、全体会議の中で、浅野全印工連会長を講師に「ポスト2005計画のコンセプトとグランドデザイン」をテーマに開催した経営者研修会には90余名が参加し熱心に聴講した。

〔全体会議・経営者研修会・全印工連北海道地区協議会〕
 最初に岡部理事長から就任あいさつと活動方針の発表を兼ねたあいさつが述べられた。
 次に、浅野全印工連会長からあいさつを兼ね「ポスト2005計画のコンセプトとグランドデザイン」をテーマに講演が行われた。
 つづいて、武石全印工連専務理事から全印工連が本年度実施する事業について委員会別に説明が行われた。

北印工組理事長あいさつ

岡部理事長

北海道印刷工業組組合

理事長 岡 部 康 彦

 

 5月21日の総代会で理事長を仰せつかり、その後、諸官庁、金融機関、有力企業、関連業に挨拶に伺い100枚の名刺を使った。たった20日しか経っていないのに理事長とはこんなに疲れるものかと実感した。
 昨年度、北海道庁に最低制限価格制度、中小企業優先発注、道内企業優先発注をお願いし、1月5日から実現した。これを縁に我々業界も良い方向に向かうのではないかという気がしている。
 また、賦課金の値上げについては、5月の総代会で無事承認をいただいた。しかし、札幌では道内のリーダーカンパニーである山藤印刷と三陽印刷が合併、旭川では中央オフセット印刷と三和印刷が合併し、しかも両方とも組合を脱退してしまった。折角、賦課金が値上げされ、組合活動もいろいろとできると思っていたが、逆に減ってしまうということが懸念されている。
 そのような中であるが、私は理事長という大役をお引き受けした以上、何ができるかといろいろ考えを巡らせ、活動方針として3つの柱を掲げた。
一つ目は、折角、道庁に風穴を開けたのだから、支庁、市町村に対して、我々業界が行政に対してストレートにものの言える強い団体にして行きたいと思っており、早速実行して行きたいと思っている。
 二つ目は、社会に如何に還元し、貢献しているかを一般市民の方々にもっと強く訴えていかなければならないと考えている。今は、情報時代であるので大いに情報を一般市民にぶつけて行きたい。例えば北のペーパーデザインコンテストや札幌支部のパソコンイラストコンテストがある。パソコンイラストコンテストは8回を数え、表彰式を札幌地下街で行っているが、通路が歩けなくなるくらい父兄、生徒、先生が来る。札幌市長賞、教育委員長賞をいただき実施しているが本当に喜んでもらっている。我々印刷業界はこれだけ社会に貢献していることを訴えて行かなければならないと思っている.
 三つ目は、地方支部の方々の意見をどんどん取り入れて、全道組合員の結束をより固めて行きたい。各支部に顔を出して率直な意見を聞き、出来るものから実行し、組合員がもっと結束を固めるようにして行きたい。そのため自分は黒子として身を粉にして駆けずり回っていくという気概をもって一期二年間、理事長として頑張っていきたい。
 厳しい時代であるが、皆さんが切磋琢磨し、一日も早く北の大地北海道にフォローの風が吹くよう願いつつ、皆さんの今後絶大なるご支援ご協力をお願いしたい。


ポスト2005計画のコンセプトとグランドデザイン

浅野会長

全日本印刷工業組合連合会

会長 浅 野   健 氏

全印工連のクライアントは各県工組

 5月27日の総会で中村守利前会長の後任として選任をいただいた。あらためてどうよろしくお願い申し上げます。今、岡部理事長さんがこんなに忙しかったとは思わなかったということでしたが、本当である。前任者のご苦労が忍ばれるし、5月27日に中村前会長がなぜあのようにニコニコ楽しそうにしていたのか良くわかった。結構あちらこちらに顔を出さなければならないような状況がつづいている。今日は北海道で来週は近畿と7月一杯は殆ど週末は全国の地区協にお邪魔することになっている。そういうところにお邪魔すればするだけのリターンがある。こんな世界があった、こんな方々とお会いすることが出来たというような新鮮な刺激、驚きで一杯である。チャンスをいただいてよかったと思っている。だからこそ皆さんに多くのリターンを感じていただかなければ失礼になると思っている。
 全印工連という団体は以前からあるので、私が申し上げまでもなく認識を頂戴していると思うが、私はこのように考えている。全印工連の財政基盤というのは各県工組からの会費である。ですから全印工連のクライアントは各県工組である。頂いた会費に見合った以上の情報提供が出来なければ、会費を頂けないと思う。ややもすると各県工組の上に全印工連があるような組織図をイメージするが全く逆である。各県印刷工業組合のお客様は組合員である。したがって先ずお客様である組合員が一番上、次に支部とかと地区とか表現は違うが地域分けのブロックがある。そして県工組、そして地区協議会がある。地区協議会は北海道と東京が他の地区協議会と異質で、一つの工業組合そのものだけで地区協議会を運営している。今日は北海道工組だけであるが、東北に行くと東北6県になる。東京は北海道みたいに広くないので、どうも東京都の地区協議会は緊張感に欠けるところがある。最後に全印工連がある。組織図でいくと一番下に全印工連がある。よく全国8,000社の印刷会社の責任者という紹介を受けるが、これは誤解である。全国8,000社の責任を取れる立場でもないし取ろうとも思わない。先ほども話した各県工組からの会費で運営されている全印工連であるので会費以上の多くの情報とまた如何に精度の高い情報をお届け出来るかが私どもの使命である。その点を認識賜ればと思う。もう一つセレモニーがかっているところを何とか排除して実態ベースで実利のあるもの変えて行きたいという夢も持っている。

20年間の流れ

 今日は、貴重な時間をいただき「ポスト2005計画のコンセプトとグランドデザイン」というタイトルで話をさせていただく。ポスト2005計画というネーミングについては、過日の全印工連理事会で正式に業態変革推進プラン〜全印工連2008計画〜という名称にした。少し長いが、業態変革というキーワードを入れたのと2008という時間軸を区切ったという両面を表現した正式なタイトルとなった。今日はその話と今後の印刷業界のグランドデザインを私はどのような認識を持っているかということであるが、後ほど正直に話をするがなかなか難しい。過去のように押しなべて業界がこうなるという時代ではないと思うので、私の言うことが果たしてグランドデザインといえるのかどうかは皆様方の判断に任せるが、どういう認識を持っているかだけは話をさせていただきたいと思っている。
 先ずポスト2005計画〜業態変革推進プラン〜であるが、これがどういうコンセプトであるかは、2005計画がどのようなコンセプトであったかを認識していただくのが一番肝要であるし、もっと言うと2005計画がどうして出て来たかということをご理解いただかないと業態変革がいきなり出て来たようでなかなかご理解を進めていただけないというところがあるので、過去に遡って私たちがどのような流れのなかでビジネスを行って来たかを振り返ってみたいと思う。過去を振り返るといっても今さら活字組版から写植に変わったというようなところは時間的制約もあるので省かせていただいて、凡そ20年前位あたりから振り返ってみたいと思う。今から20年前の1984年は、今年はアテネでオリンピックがあるが、その年はロサンゼルスでオリンピックがあった。ロスのオリンピックで何があったかというといろいろな選手が活躍をしたが、私が記憶に一番鮮明に覚えているのは、初めて人工衛星を使い、アメリカの写真月刊誌タイムかライフか失念したがロスから電波を出してそれを香港で受けてカラーでアジア版として印刷した。実証実験ではなく正にビジネスとして行われた。それまでのフイルムをハンドキャリーで遠隔地へ運んでいた時代ではなく正に通信でカラー印刷が可能になったそんな時代であった。実はこのオリンピックに関しては私もよく話をするが、4年ごとに通信インフラはよく変わる。ロスのオリンピックの丁度20年前の1964年は東京オリンピックであった。東京オリンピックの時は、テレビのカラー放送が段々ポピュラーになって行く時代の幕開けであった。ロスの次のソウルのオリンピックは前日の競技が翌日の日本の全国紙の朝刊でカラー刷りになった。新聞のカラー刷りは今は当たり前になっているが、正にソウルのオリンピックが新聞のカラー刷りの幕開けであった。そしてバルセロナ、アトランタ、シドニーと続いて行くが、シドニーのオリンピックに何があったかというと、選手が持っているホームページは期間中クローズというお達しがIOCから出された。バルセロナ、アトランタと回を重ねるうちにインターネットが生まれ、シドニーの時には選手がホームぺージを持っているのが当たり前になっていた。今年のアテネはどうかというと携帯電話でオリンピック中継が見られる。次の北京はどうなるかと考えるとわくわくする。そんなオリンピックイヤーである。20年前のロスの時は1984年であったのでそろそろ21世紀が見えて来ていた。21世紀はどうなるのか、これから日本はどうなるのかという話題が出て来た。何かにつけて21という数字がプロジェクトに付いたり、横浜にはMM21というように広大なエリアがある。こんなものも出来てきた時代である。

4つの潮流

 これからの日本はこうなると言われた4つの潮流があった。一つは国際化である。もう一つは高度情報化、そして少子高齢化、成熟化というこの4つの潮流がこれからの日本に大きな影響を与えて来るだろうし、現実化して来るということがよく言われた。今考えてみると正にそうなった。国際化は厭な国際化もある。悪い外国人が来て急ぎ働きをやっている。泥棒に良いも悪いもないとは思うが、昔の泥棒はなんとなくきれいな仕事をやり、盗まれたかどうか分からないうちに仕事をやったが、今は派手である。パワーショベルで壊して金庫ごと持っていくとか火薬で壁を爆破して金庫ごと持って行くとかである。こういう犯罪の国際化もあるが、それ以上の良い国際化もたくさんある。国際化というものが現実のものとなった。高度情報化については、我々は正に高度情報化に直面してアナログからデジタルという大きな洗礼を浴びて来た。先ほど話したインターネットは正に高度情報化でこれからはブロードバンドである。どのようにライフスタイルが変わるのか楽しみである。高度情報化が正に現実のものになって来た。少子高齢化については、昨日あたり発表があり、国民年金改革法案が通ったのに嘘つきだと言われている。しかし、政府がどう言おうと、子供を作らないのは我々国民の責任もあるのだから政府のせいばかりにしていられない。現象としては少子高齢化が進んでいる。これもこれから大きな影響が出て来る。最後に成熟化ということであるが、この成熟化ということはあの当時は訳の分からない言葉であった。いったい何が成熟するのかということであった。こういう解釈が一つあった。国際化、高度情報化、少子高齢化が成熟し、日常化して行くという意味での成熟化、もう一つは経済成長が成熟化して行くだろう。成長から微成長あるいは横ばいに変わって行く。日本という国が、結果として昨年と今年があまり変わらないヨーロッパ型の成熟した国家になるだろうと言われた。確かに経済の言葉を借りれば成熟化というのはそのとおりであるが、片方では環境変化のスピードが速いので成熟化した社会が実現したかというと私はそういう実感がない。いずれにしてもその4つがあった。

印刷産業は成熟産業

 我々の業界では何があったかというと、1991年に印刷産業の出荷額が8兆9千億円、それがピークである。印刷産業という場合には印刷業、製版業、製本業、表面加工業、印刷業の中にもシール、グラビアなどもあり、俗に日本印刷産業連合会所属の10団体の仕事である。明治以降ずっと成長を続けてきた出荷額が1991年でピークを迎えた。勿論その前に1985年頃にプラザ合意あり、内需拡大ということでバブルが発生し、そしてバブルが終焉して行くというそういった全体のGDPとバブル経済とかのカーブに似てはいるが、1991年8兆9千億円で印刷産業の出荷額はピークを迎えた。その後は下がって来ている。2001年が8兆円、2002年が7兆6千億円、2003年はまだ正確な数字は出ていないが7兆6千億円をはるかに割っていて、7兆5千億円も割ると思う。しかし、考えてみると一気に谷底に落ちた訳ではない。他産業に比較するとなだらかに下がって行った。これは印刷産業は1997年に成長期を卒業して成熟期に入ったと私は認識している。そして我が印刷工業組合ではどうかというと1971年から続けてきた構造改善計画事業に変わるものとして1997年に新業界計画構想に着手をした。そしてそれが2005計画となって行く。その背景には何があったかというと東京オリンピックの前の年の1963年に中小企業近代化促進法が生まれた。商工組合法で定められた商工組合である印刷工業組合を通して中小企業の全体底上げを政府がサポートしてくれた。設備投資のハード中心であったので割増償却や補助金があった。印刷工業組合を窓口としたのは全体底上げと見て良い。印刷業界では1971年に構造改善事業としてスタートし第4次まで行った。それが1999年に中小企業基本法が変わった。今から思い起こすと年末に中小企業国会ということで報道をされていた。今になれば思い起こすことが出来るが、私は当時それが何を意味するのか分からなかった。しかし、1999年に中小企業基本法が変わり、そこで具体的には1963年から延々と続いてきた中小企業全体の底上げを基本とした中小企業近代化促進法から中小企業の多様化と新たなる活力を求めた経営革新支援法に180度衣替えをした。それまでの全面底上げの護送船団方式から手を上げてやる気のある人しか応援しないというように政府の方針が変わった。その前触れが新業界計画構想としてあり2年位前に着手し、1999年に2005計画を策定し2000年にスタートをした。同時に1999年という年は省庁改革も行われた。通商産業省が経済産業省に変わった。通産省の時の私どもの原課は生活産業局紙業印刷業課であり製紙メーカーと印刷業は一緒で製造業のカテゴリーであった。それが経産省に変わったら新設された商務情報政策局文化情報関連産業課に変わった。名称があまりにも長いので通称メディアコンテンツ課と言われている。
 余談であるが、メディアコンテンツ課の広実課長さんに、通称メディアコンテンツ課と名刺にも書いてあるのだからなぜそうしなかったのかと聞いたところ経産省では横文字は許可されないということであった。実にナンセンスだと広実課長さんも思ったのでエネルギーとかガスという課もあるのではないかと言ったら、ガスという字を漢字で書けるかと言われ書けないと言ったらだから駄目なんだ言われたという訳の分からない笑い話のような本当のような話をしていた。今度はどこと一緒かというとメディアとコンテンツである。メディアは印刷もメディアであるが放送局もメディアである。コンテンツは音楽、出版、ゲーム、映像とかである。勿論コンテンツの中身に関しては、音楽、映像などは文科省や文化庁が関連しているが、産業として捉えた場合はメディアコンテンツ課で我々と一緒である。これも随分劇的に変わった。それまではバリバリの製造業という位置づけにあったにもかかわらずソフト産業化した。実態は何も変わっていないのに原課だけが変わった。1999年はとてもインパクトがあった年であったような気がする。当時、私はそんなことは知らなかったので、今になっていろいろ話を聞いたり、過去に遡って資料を見たりして、そうであったのかということになる。20年前、国際化、高度情報化、少子高齢化、成熟化ということがまさか我が印刷業に何らかの影響えを与えるということは、正直言って私は全く考えていなかった。要するに結びつけるということをして来なかった。少し前まで印刷業は社会から独立していて、その中だけで皆さんと話しをしていたという錯覚すら覚えるくらいに世の中の大きな流れが我が身どう降りかかって来るかを、不真面目ではないが真面目に結びつけて考えては来なかったのは事実である。

何が変わったか その1 主役

 しかしながら、その結果として、重要な3点が具体的に変わったと私は考えている。第一は主役が変わった。それは世の中の主役である。日本は戦後の混乱期から復興期、成長期へと移行したが、社会は産業を中心に構成されていた。昭和30年代には鉄は国家なりという言葉さえあった。しかし主役は産業から消費者に劇的に変わった。正に消費者が国家なりである。今日ここにいる方も私も5時以降は消費者であるので、我々だけが被害を受けたわけではない。一人一人が社会を構成するという極当たり前の状況になって来たということである。これをもう少し踏み込んでみると、印刷業界はこれからどうなるかである。印刷業界がこれからどうなるかということを考えるのは全く意味がない。極論かもしれないが敢えてハードな言い方をすると、印刷業界がどうなるのかということは印刷業以外の人は全く興味がないどうでもいい話である。ということはどう考えればいいかと言うと消費者のために印刷業界はどうあればいいかということである。こう考えて行けば必ず課題は見えてくる。自社のことを考えるとどうであろうか。自社が生き残るとか勝ち残こるとかよくそういう表現を使うが、そんなことはその会社に関連した人でなければどうでもいい話である。そうではなく、お客様またはそのお客様のお客様にとって自社はどうあればいいかを考えるべきではないか。例えば、お客様が私どもに発注をしてくれる。発注時点においてお客様は何のストレスも感じていないか。何の不満もないか。そんなことはない。もっと早く出来ないか、もっと品質保証を万全にしてくれないか、もっと価格を安くしてくれないかと思っている。価格に関しては敢えて誤解のないように話をするが、お客様が一番望まれるは価格は何かというと、さすがにただとは言わないが、限りなくただに近づいたところである。ということは1割や2割引いてもお客様は喜んでくれないということである。だから価格競争はナンセンスである。こんなものやっても駄目である。なぜ価値を上げることを考えないのか。少し横道にそれたがこれも重要な認識であるので敢えて批判を覚悟で話をさせていただいた。ともかく、主役が変わり社会の構成が変わった。

何がかわったか その2 競争相手

 次に変わったものは競争相手である。北海道の印刷会社の競争相手は北海道の印刷会社と決まっており、東京の印刷会社の競争相手は東京の印刷会社と決まっていた。東京には東京に本社のない印刷会社が1,200社あり、東京で営業活動をしている。そんなことすらつい最近まで知らなかった。なぜかというと東京は日本の中で物凄く恵まれているからである。明日の晩ご飯、明後日の晩ご飯くらいはではきちんとメニューが決まっているのでせこせこしていない。ある人は都心の印刷会社は印刷会社だと思っていないと言っている。彼らは不動産業である。売り上げが下がっても、賃貸収入で経営者は困っていない。1,200社が来ているということはそれだけ東京に一極集中しているということである。しかし東京生まれの東京育ちは私のようにおっとりしているのでそういう事実すら気が付いていないということである。どうぞ皆さん東京に来てください。もう少し刺激をいただき東京の仲間にも早く気づいてほしいと思う。競争相手が変わった。1,200社と言ってもたかが日本の中の話である。海外の印刷会社も競争相手である。特に東アジア、台北、香港、シンセン、大連、上海、ソウルがある。通信販売で商品を頼むと商品が来る。そんなことは誰も驚かない当たり前のことであるが、見ていた通販カタログそのものが輸入物である。ソウルで刷られていたが書いていないので分からないだけであるがそういうことが実態としてある。日本の弱電メーカーが上海でテレビや洗濯機を作り日本にも持って来るが日本語の取り扱い説明書は現地調達である。そしてセットして段ボール箱に入れる。当然、段ボール箱も印刷して現地調達である。こういう印刷物の輸入はストップできない。日常的になっている。まだまだと言いながら1,000億円である。1,000億円というと共同印刷の売上げである。共同印刷の売上げに匹敵するものが印刷物として海外から既に輸入されている。過去にも洋書というものがあったが、あれは印刷物の輸入とは言わない。雑誌の輸入とか書籍の輸入ということになる。今や正に印刷物の輸入というものが1,000億円ある。しかし、printed in香港、printed in上海と表記されていないので気が付かない。同じ印刷会社であっても地域の競争相手から全国的な競争相手、海外の印刷会社も競争相手になって来た。それでもまだコップの中の嵐に過ぎない。競争相手が変わって、その凄い競争相手が電子媒体である。インターネット、Webである。今までは印刷物で情報を伝えていたものが違うものになった。同質の競争も残っているが、それプラス異質との競争も始まって来た。正に大競争時代である。大競争は他の産業は既に見舞われている。ですから印刷産業というのは如何に恵まれたいたかということである。少なくても日本でしか使われない日本語という言語のおかげで海外と摩擦がなかったという製造業はどこにもない。まだその程度なので今でも恵まれている方である。しかし劇的に競争相手は変わった。

何が変わったか その3 スピード

 3つ目は速度、スピードである。どういう風に変わったかというとセブンイレブンというコンビニエンスストアがアメリカに出現したときは朝7時から夜11時まで営業するからセブンイレブンであった。当時の商店というのはおそらく10時か遅いところは10時30分に店を開けて夜7時には店を閉めていた。それが常識であった。それが朝7時から夜11時までということで、当時はびっくりしたわけである。ところが今セブンイレブンはどうなっているかというとセブンtoセブンである。24時間休まなくなった。ところで、北海道の皆さん納期は長くなっていますか、短くなっていますか。北海道であろうと東京であろうと短くなっている筈である。なぜ短いのか。私どもでも昨年入った新人でさえ、最近どうだというと納期は短くなったと真顔で言う。お客様が出稿をさぼっていてその皺寄せが印刷会社に来ているかというとそうではない。私は最初はそのように若干疑った。しかし、いろいろな方に聞いても誰もがそうだと言う。他の産業に聞いてもそうである。なぜ納期は短くなったのか。そこでセブンtoセブンである。何千年も前から1日は24時間である。それは今でも変らないが、少なくても半分くらいは人も寝たが仕事も寝ていた。今は人は寝るが仕事は寝なくなってしまった。24時間稼動になった。そこが納期が短くなったところであるし、速度が速くなったということである。先ほどの20年間の流れであるが2001年に政府はe―japan戦略を発表した。電子政府、電子自治体である。これは何を目標としているかというと役所仕事といわれている政府つまり官が行政サービスを24時間365日ノンストップで行う。24時間365日どこからでも行政サービスが受けられる。それもワンストップだから印鑑証明を取るのも出生届を出すのも住民票をもらうのもワンアクセスでいいということである。これを目指すということがe―japan戦略である。その第一ステップが環境整備である。その環境整備はもう整っており、第2フェーイズに入っている。2003年にはe―japan戦略その2が発表されている。その整った環境を使って新たな産業を起こすというのが計画その2である。あの役所仕事を言われたところが業務を休まなくなった。考えてみたら正月の三が日もスーパーやコンビニは営業をしている。保存食すらいらなくなった。そういう24時間対応をしている業界やそこで仕事をされている方達の恩恵を公の部分でも私の部分でもたくさん受けている。例えば明日北海道でゴルフをしようと思えば、東京からゴルフバックを送ってまたゴルフ場から東京へ送ると、私がもたもたしているうちに北海道から東京にゴルフバックが着いてしまう。昼間しか動いていなければ無理であるが24時間動いているので可能である。政府はすべての産業に対して24時間365日ノンストップに対してあなたの産業はサポートする気がるかと聞いている。去年の話だが、岸前理事長は北海道からも札幌市からもそう聞かれた時に、全部が全部出来るわけはないがやりますと言ってしまったと私に言っていた。また、他の国と比べて私たちの意志決定のスピードはどうか。あるいは決定したものを行動に移す時間はどうか。決して我々がアジアよりスピーディに動いているという状況にはない。とてもとても時間がかかっている。速度が変わった。日本の速度だけではなく、海外との速度も変わっている。改めて自らの進歩の遅さに気が付いた。20年も前から言われてきた大きな4つの潮流で主役、競争相手、速度の3点が変わった。その間に私どもは先ほどの4つの影響、1991年が出荷額のピークでそれから成熟期に入って行く、国際化の影響は先ほど話した東アジアの印刷会社まで競争相手になってしまった、高度情報化の影響はともかくインターネットである、少子高齢化は人口が増えないので総論でいうとマーケットは増えない、今までと同じことをしていたら売上げは下がる時代、もちろんこれからはシルバーマーケットは良いとか、団塊ジュニアがあるとか言われるようにマーケット構成が変わることは事実であるがマクロでみればマーケットそのものは大きくならない。気が付けば企業規模がこんなになっていた。こんな分野に特化しあらゆる産業あらゆる業種がお客様に居たというのが今までのあり方である。これからは気が付けば企業はなくなる。そのように変わったということである。そして成熟化である。例えば社会が成熟していくと皆んなが同じ物を欲しがらない。多品種少ロットになって行く。勿論、経済成長は鈍化する。日本生産性

会社が無くなって困るのは

 それではどうあればよいか、どうすればよいかを考える時に私はふとこんなことを考えた。今日お客様のところに行って長年ありがとうございました。諸般の事情があり今日で仕事をやめることになりましたと言ったらお客様はどうするか。どのくらい困ってくれるか考えてみた。結論を出したのはせいぜい3日くらいと思った。情けないと思った。そろそろ80周年を迎えようという企業で多くの先輩が汗を流し無い知恵を絞って頑張ってくれたその結果が、仕事をやめるといってもお客様は3日間くらいしか困らないのかという自分の仮説の結論にうろたえてしまった。皆さんはいかがですか。要は主役が変わったのだから我々がこれからどうあるべきかということはお客様にとって我々はどうあればよいかを考えれば良い。先ほども話をしたが、お客様は私どもに仕事を発注してくれるが、その際に全くストレスはないのか。納期、品質、価格。私は若いころ営業をやっていたので、大日本印刷や凸版印刷に負けるに決まっているのに負けませんという嘘ばっかり言っていた。しかしたまに勝つから痛快な時もある。なるべくそういうところと当たらないようにニッチマーケットを探すわけである。お客様がもし困らないとすれば、それは我々は数多い業者の1社ということである。だからお客様は困らない。

情報提供と提案

 お客様のために我々がどうあればよいかということを考えたときに一言で言えば数多い業者の1社では駄目である。どうあればよいかはパートナーである。数多い業者の1社からどういう道を進めばパートナーになれるかということを徹底的に考えるしかない。他にあるかもしれないが、あったら是非教えて欲しい。一生懸命考えたがそれしかないように思う。業者とパートナーの違いはいくつもある。一つは業者は情報提供をするがパートナーは提案をする。自分のことでよく分かる。私は主役が変わったということを認識していなかったので、営業を長くやっていたがすべてが自分の評価を上げるための営業であり自社の利益を上げるための営業であった。お客様の利益を上げるための営業なんて考えてもみなかったし、考えてもみないのだから実践が出来るわけもない。だから優秀な営業マンにはなれなかった。それが今になって気付いた。提案営業ということは随分前から言われているし、私も言って来てやって来たつもりであったがその提案は提案ではなく情報提供であった。情報提供が悪いと言っているわけではなく情報提供はすべきであるが、提案とは全く質が違うということである。お客様は情報も求めているがもっと求めているものが提案である。提案というものは何かというと自社の利益が上がることである。お客様の利益が上がるということを仮説でも何でもよいので、例えば今日の私の話を聞いていただければ御社の利益はこういう理論で上がっていく筈なので一度トライさせてください。これが提案である。王子製紙は今度こういう紙を作ったので使ってみませんかというのは情報提供である。それを使えばどうなんだと言われあのそのになってしまう。私どもはお客様に印刷物を提供することによって何をして来たのか。お客様のコミュニケーションをサポートしていた。お客様は鼻から印刷物が欲しいわけではない。お客様は印刷物コレクターではない。自分の持っている情報を印刷物という媒体で多数の人に伝えたい。それにはいろいろな目的がある。売上げを上げるため、イメージを上げるためとかである。いずれにしても一言で言うと、それを適当な言葉がないのでパフォーマンスという表現を許してほしい。情報を多くの人に伝えることによってパフォーマンスを上げたい。そのための手段として印刷物が必要であった。私どもはプロであるのでその手段を提供した。そうするとお客様の目的も知らずにいるということはどうか。私

業態変革

 10社あれば10通りの考え方があると思う。いずれにしてもそこに共通しているのは今までのあり方を客観的に見直して、お客様のためになるのにはどうしたらよいかということを徹底的に考え実行に移すことだということは共通している。例えば、お客様の不満足度を下げること、同時並行でお客様の満足度を上げることをお客様のカスターマーサティスファクション(CS)とよくいうがCSの前にお客様の不満足度がある。そちらが先だと思う。しかし、それが限りなくゼロになって行くまでの時間が待てないから、同時にお客様が喜んでくれること、正に提案も同時並行でやって行かないと速度が変わったのでお客様は待ってくれない。主役が変わって我が社のためにお客様は存在しているのではない。お客様のために我が社が存在しているのだからそれは当たり前である。競争相手が変わって異質の人との競争もあるので、今まであったら大体相手の手の内が読めたのが読めなくなっている。これは知恵を使うしかない。知恵だけでいいかといったらそんなことはない。汗も流さなければいけないし知恵も使わなければいけないということである。私はそういった過去のありようを客観的に見直して、お客様のためにどうあればよいかを徹底的に考えることを業態変革ということに結論づけた。業態変革というと印刷屋が豆腐屋になってしまうようなイメージを持つ方もいるが、決してそうではなく、私たちの得意分野をもっと強固にして、次はお客様のために領域を拡大することである。そこで私がよく業態変革は5Sと話をする。2005計画は近代化促進法が経営革新支援法に移った。だから自分の責任で自分のことはやろうということを印刷工業組合としてリードしていかなければならない状況になったので、将来を予測して予測の結果を前提に経営計画を立て、変化に対応しようということであった。6つのキーワードと79のメニューを出し過ぎてしまった。6つのメニューは今見てもフレッシュである。決して陳腐化していない。経営高度化推進事業、紙媒体の活性化推進事業、マーケティング推進事業、知識集約化型サービス化推進事業、品質環境対策グローバル化推進事業、デジタル化ビジネス社会への対応推進事業の6つを出した。トータル79のメニューを出した。出し過ぎてしまった。これを全部やらないと駄目かと誤解された。そんなことやっていられないし出来るわけがない。印刷工業組合は何を考えているのだというアレルギーが全国にあった。私もその当事者の一人であるので大変反省をしている。しかし、内容は全く陳腐化していないがその間に環境は大きく変わっている。e―japan構想などは我々は知る由もなかったがそんなものも生まれて来ている。そこで先ほどの業態変革という結論は、言葉としてそうまとめてみたということであるので、皆さんは業態変革という言葉を大事にしてくれることは全くない。そんなことよりも、先ほど話した過去から現在に至るプロセスを客観的にお客様の状況や市場変化やいろいろとあると思うが、例えば自社の設備投資の状況はどうであったかなどを客観データとして付け合せをして、これからお客様が何を望んでいるかを考えてお客様に望まれる姿になるにはどうしたらよいかを自分で考える。そしてその課題の中から順位を付けて時間軸を区切って実行に移す。これしかない。それを業態変革という言葉で私は表現させていただくことにした。この業態変革を進めて行くと、2005計画は変化への対応であった。変化への対応は受け身である。変化は変わることである。変革ということは変えることである。何かがあってからそれに対応して行こうではもう遅い。何がどうなるのかを予測してその前に自らの意志で自分を変えて行くことが必要である。スピードが変わって加速している。そんなことを皆さんと一緒に進めて行こうということである。

競争相手を共存相手に

 それではまず何からすればよいかということであるが、そこで全印工連としては業態変革企画推進室を作った。いろいろな情報を皆さんに発信する。10月に香川で全国大会があるがその前にまとめたものはその時点で発信して行く。現在、どのような議論を進めているかは常に「日本の印刷」に掲載しているが、誰も読まない「日本の印刷」をこれからも出し続けるつもりはない。それは経費の無駄である。どうすれば皆さんにわくわくして今日届くか明日届くかと待ち望んでいただけるような誌面づくりを徹底的にしていく。あるいは印刷組合だから印刷でなければいけないと誰も決めていない。スピードが必要なものはそろそろメールにしませんか。競争相手が変わったが、競争相手をいつまでも競争相手にしておく必要はない。共存相手、共存関係、コラボレーション、共創ネットーワーク、分業のパートナーとして行っても良いのではないか。紙媒体も大切でとても価値のあるものであるが、スピードは電子媒体に負けるということがあれば、スピードを優先する場合には我々は我々のために紙媒体を変える必要があるかもしれない。あるかもしれないなど空々しいことは言わない。あります。やって行かなければ駄目である。世の中のスピードに対応できない。ましてや情報伝達媒体の世界にいる我々が他の情報伝達媒体を知らないとすれば、敵を知らないということであるのでどうにもならない。新しい情報伝達媒体を自分達のために積極的に利用して行くべきである。まずは自分の得意技を伸ばすことである。業態変革といっても印刷業が印刷で利益が出なかったらどうするのか。どう何を変えればいいかといってもその原資はどこから出るのか。それでは印刷はもう本当に利益はでないのか。そんなことはない。私は自社の中を歩き回ると幾つも宝の山が見える。あの宝の山を本当の宝にすることが出来ていれば、今、既に宝の山になっているが、まだ宝になっていない。それは見た目は経費になっている。しかし、それは実態は宝の山だと思う。今で出来ることを明日に延ばしているからいけない。あるいは1人でよいことをペース配分しながら3人でやっている。そんなところがいくつも見える。こういうものを徹底的に排除する。当社のベンチマークは何処と言われ考えた。比較する相手は何処かということである。敢えて無茶苦茶かもしれないがトヨタ自動車とした。あのトヨタがなぜあのトヨタなのか。今は経団連の正副会長会議も緊張感がないと

業態変革で界から際へ

 業態変革は10社があれば皆さんでこっちに変わりましょうというようなそんなモデルはない。グランドデザインはなかなか描きにくいということである。そうはいっても敢えて考えてみた。10社あれば10通りの業態変革がある、100社あれば100通りの業態変革がある。それを本当にみんなで真剣に考えると印刷業界がもっと広がるということである。インター業界になって来る。つまり業際である。業界から業際の時代になって行くと思う。ですから皆さん1社1社の企業がこれからどういう新たな枠組みの中で仕事をしていくかである。全体としてこうなるとういことはもはや言えないし、言っても意味のないことだと思う。そういう時代に、全国の県工組からの会費で賄われている全印工連が県工組にどういう情報を提供させていただくとコストに見合うかということである。それはどうあろうと今までのあり方を見つめ直して、お客様のために自分の意志で自社を変えて行くことではないかということが背骨である。骨格の部分は、例えばスタートのところが分からない人には敢えて5Sと言う。朝気持ちの良い挨拶が交わされない職場で良いものができる筈がない。お客様の信頼が厚いと思わない。掃除が行き届いていない現場で良いものができる訳がない。古くても磨きぬかれた機械があるところではプロが良い仕事をしているのではないか。プロとしての誇りがみなぎっている職場から良い物ができる筈である。それには設備投資もいらない。ただ経営者の熱き経営者魂が必要である。それを継続して行く熱い気持ちではないか。時にはぼやきたくなるが、それはお互い仲間で聞こうではないか。経営者であったら諦めない、投げ出さないというところに初めて業態変革のドアが開くように思う。難しく考えればいくらでも難しく考えられる。難しく考えて成果が出ないことよりも簡単に考えて成果を出した方がエネルギー効率が良い。これから私の任期は2年あるので、多くの仲間達と議論をし徹底的に研究をしながら皆さんに喜んでいただける現場で役に立つ情報を提供させていただきます。